第9章 トナカイ
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エドウィン・バロウズとマイク・ウォーレスは、ニューヨークの歴史を鮮やかに描いた『ゴッサム」のなかで、米国人の知るクリスマスは実美はビッグ・アップル、つまりニューヨークで作り出されたのだと主張している(Burrows & Wallace, 1999)
それ以前は米国のクリスマスは大したものではなく、新年の方がお祝いとしてよほど重要だった
実際、クリスマスを祝うのは異教徒化につながるカトリック教徒のたくらみだとして、清教徒たちは禁止していた
ワシントン・アーヴィングがニューヨークの階級社会、特にオランダ移民の社会を風刺した『ニッカーボッカーのニューヨークの歴史』を書いて、風潮の変化を引き起こすのに一役買ったようだ(Irving & de Bonniville, 1884)
アーヴィングによれば、もともとオランダ人がマンハッタン島に建設した都市であるニューアムステルダムの守護聖人が、聖ニコラスだったという
聖ニコラスはカトリック教でもギリシャ正教でも、秘密の贈り物を授けてくれる聖人として古くから敬愛を受けていた
アーヴィングはその聖ニコラスを子どもが眠ってる間に煙突から降りてきて、ぶら下げてある大きな靴下にプレゼントを入れていく陽気なおじさんに仕立て上げた
サンタクロースというニックネームをつけたのもアーヴィング
オランダ語で短縮形で呼ばれるこの聖人の名前「シンタークラース」を適当に変えたのだろう
しかし、アーヴィングのサンタクロース話にはトナカイは影も形もない
トナカイをクリスマスに組み込んだのは、クレメント・クラーク・ムーア
1822年の「クリスマスの前の晩」(元の題は「聖ニコラスの来訪」)は自分の子供のために書いた詩(Moore, 1934)
空飛ぶトナカイが登場する
今もそうだが、トナカイ(北アメリカでは「カリブー」と呼ばれる)には当時から北国のイメージがあった
トナカイは北極周辺に分布しており、アラスカからカナダの大部分の地域、東はグリーンランドやスカンジナビア半島、ロシアのシベリア地方全体、そしてカムチャッカ半島にまで生息している
当時、そりを引いていたのはスカンジナビア半島とシベリアのトナカイだけ
トナカイの引くそりというモチーフの出どころとして、最も可能性の高いのはスカンジナビア人の共同体
サンタのトナカイがなぜ空を飛ぶ能力を得るに至ったか
ある仮説は北欧神話のトール神からの影響が強いとしている
根拠は2つ
サンタのトナカイにつけられたドナー(ドンダー, 雷鳴)とブリッツェン(稲妻)という名前
トール神は飛び回ることで悪名を馳せているが、トール自身には飛行能力がないこと
空飛ぶヤギの引く特別な二輪戦車に乗る
しかし、農耕の神であるトールにとって、ヤギは実際的にも神話的にも重要な存在
トールを信仰する民族はトナカイに縁の深い民族ではない
トナカイと縁の深いのはもっと北方の牧畜民で、アニミズム的
別の説ではシャーマンが重要な役割を果たしているが、主役を演じるのはベニテングタケ(Amanita muscaria)
ベニテングタケ(マジック・マッシュルーム)にはサイロシビン(プシロシビン、シロシビンとも)という幻覚剤が含まれている(Allen, 1996, reviewed in Dugan, 2008)
シベリアのシャーマンがこのマジック・マッシュルームを用いて精霊の世界と交信する際に、空を飛ぶトナカイというビジョンを得たとされる
このマジックマッシュルーム仮説の提唱者の中には、サンタ自身がシャーマンだっと主張するものもいる(Yamin-Pasternak, 2010)
証拠はサンタの赤い鼻で、赤くて白い斑点があるところがベニテングタケにそっくりであり、この色使いがまたサンタの衣装と一致するというのだ
話を盛りすぎでは
最後の説は、モンゴルと南シベリアで見られる青銅器時代の巨石に関係している
シカの模様が刻まれているのが特徴的な、鹿石と呼ばれるもの(Fitzhuah, 2009; レビューは DePriest & Beaubien, 2011を参照)
鹿石に刻まれたシカは四肢を前後に広げ、明らかに空を飛んでいる
また、角が細かく枝分かれして翼のような構造になっている
枝角に羽毛が生えているものもある
角と鳥が一体化しているものもある
鳥と羽毛のモチーフは、この時期に作られた人体のミイラで特によく見られる(Vitebsky, 2005)
ミイラに施されたタトゥーは保存状態がきわめてよく、風雨にさらされた鹿石に刻まれたのと同じ図案を詳細まで見ることができる
鹿石が見られる地域はトナカイが最初に家畜化されたところだという考察には、おそらく意義があるだろう
これがサンタの空飛ぶトナカイの原型だと考える人もいる(Vitebsky, 2005の鹿石についての議論が参考になる)
しかし、青銅器時代のモンゴル文化と19世紀のニューヨーク文化では、隔たりすぎている
サンタの空飛ぶトナカイについては特に納得できるような説明はない、と結論づけるのが無難
当時、ドイツ語圏由来の物語がニューヨークに流布していて、ムーアがそれを知っていたのは明らかだが、その話自体の起源がどこにあるかは未だに謎
そり引き以前のトナカイ
トナカイはシカ科に属している
シカ科
ヨーロッパ産のアカシカとノロジカ
北米のワピチ(アメリカアカシカ)、オジロジカ、ミュールジカ
アジア産のアクシスジカ、サンバー、ホエジカ、ターミンジカ、バラシンガジカ
南米のプーズーとマザマなど
ヘラジカ(Alces alces)はエルクとも呼ばれ、シカ科最大のメンバーである
北米ではワピチをエルクと呼ぶが、ワピチとヘラジカは別属別種である
シカと名のつくものの大部分はシカ科に属するが、種々のジャコウジカ(ジャコウジカ科のジャコウジカ属)やマメジカ(マメジカ科のマメジカ属)はシカ科ではない
シカ科はウシ科(ウシ、ヒツジ、ヤギ)と同じく蹄が2本で、偶蹄目の反芻亜目に属している
反芻亜目の動物はすべて胃を四つ持ち、反芻する
シカ科とウシ科は漸新世後期(2400万~2000万年前)に分岐し始めた
シカであることに疑いのない最古の化石は約1900万年前のディクロケルス(Dicrocerus)で、ホエジカに似ていた
この初期のシカには枝角があった(Pitra et al., 2004)
シカ科とウシ科を見分ける最大のポイントは頭部の装備
ウシ科は「洞角」
中空の骨がケラチン質の鞘に覆われたもの
一生もので脱落しない
シカ科は「枝角」
骨だけでできている
毎年脱落して新しく生えてくるが、これにはかなりのエネルギーが費やされる
たまたまだが、トナカイはシカ科の原則から外れていて、雄にも雌にも枝角が生える
雌の枝角は雄の枝角よりもかなり小さく、また脱落の時期は雌の方が雄よりも遅い(たとえばMarkusson & Folstad, 1997など)
12月の終わりまで枝角をつけているのは雌だけ
サンタのトナカイはすべて雌だということになる
シカ科は大きく2つのグループ
主に旧世界で進化したシカ亜科と主に新世界で進化したオジロジカ亜科
この2つを分ける主な特徴は中手骨の配置
中手骨は人間の手にもある骨(Zhang & Zhang, 2012)
更新世の氷期の間、シカ亜科のなかには、ワピチなど、ベーリング海峡に形成された陸橋を渡って旧世界から新世界に移動したものがいた
オジロジカ亜科に属するトナカイは、逆に新世界から旧世界に移動した
同じくオジロジカ亜科のヘラジカやノロジカも同様に移動した(Meiri et al., 2014; Guthrie, 1968)
トナカイには、雌に枝角があること以外にも、他のシカ科のメンバーとは異なる特徴がたくさんある
哺乳類にしていは珍しく、地衣類を大量に消費する
トナカイが特によく食べるハナゴケ属という地衣類は「トナカイゴケ」と呼ばれることも多い
地衣類は人間には毒である。トナカイにとっては毒ではないが、栄養分はそれほどなく、他にいい食物がないときに消費するのが普通である(Heggberget, Gaare, & Ball, 2010; Airaksinen et al., 1986)
地衣類を消化するにはリケナーゼという酵素が必要
リケナーゼは地衣類に含まれるリケニンという多糖類をグルコースに分解する
この酵素を持っているおかげで、トナカイは北極圏や亜北極圏の環境で生活していくことができる
北極圏に住む人たちは、トナカイのこのユニークな消化系の適応を利用することがある
トナカイを殺して肉を食べる際に、胃袋の中の半消化状態の地衣類まで食べてしまう
ネアンデルタール人にもこの習慣があったかもしれない(Buck & Stringer, 2014)
地衣類を消化できない人間にとって、これは地衣類からエネルギーを得る唯一の方法
トナカイには他にも注目すべき適応が見られる
トナカイは蹄が季節によって変化する
トナカイの蹄は夏には弾力のあるスポンジのようになるので、柔らかく水気の多いツンドラでもグリップが効く
冬には縮んで特に外縁部が固くなり、氷に食い込んで滑らないようにする(Rue, 2004)
また、北極圏の寒さに耐えるために分厚い毛皮を持っている
毛は二層になっていて、上毛はホッキョクグマと同じように中空で空気が入っており、身体から外界への熱の放散量を減らす
下毛は哺乳類によくあるタイプで密生している(Timisjärvi, Nieminen, & Sippola, 1984)
高緯度地方は一年のうち大部分の期間は日光が不足するので、トナカイはほとんどの哺乳類には感知できない波長の短い紫外線でも見ることができるので、暗いところでも困らない
Hogg et al., 2011による。ただしDouglas & Jeffery, 2014によれば、紫外線の知覚は哺乳類ではそれほど珍しくない
地表に届く短波長の光(紫外線〜青色光)のうち、90%は雪に反射されてトナカイの網膜に届く
尿や糞も紫外線を反射するので、トナカイにとってはよく目立つ
そのおかげで、仲間同士だけでなく捕食者の動向にも目を配ることができる(Hogg et al., 2011; 網膜の紫外線感受性の季節的変化についてはStokkan et al., 2013を参照)
トナカイが食べる地衣類も紫外線を反射する(Hogg et al., 2011)
トナカイの分布域は、更新世の間、氷河の前進や後退につれて劇的に変動した
氷河の後退によって新たにできたスペースを、トナカイは少なくとも季節単位では真っ先に占領してきた
そして現在と同じように寒さの厳しい季節には南方の森林(タイガ)で過ごし、季節が変わると北方のツンドラへ移動した(Bahn, 1977)
更新世後期の氷期の大部分、ネアンデルタール人と、さらに後には人間(ホモ・サピエンス)にとって、トナカイは最重要な食物源の一つだった
ネアンデルタール人の食餌におけるトナカイの肉の役割についてはEnloe, 2003を参照。人間(マドレーヌ文化)の食餌におけるトナカイの肉についてはPatou-Mathis, 2000を参照
最後の氷期(1万7000~1万2000年前)の終わりには、ヨーロッパ人はトナカイにかなり依存していたので、その時期は「トナカイ時代」として知られているほど
当時、槍投げ器(アトラトル)が発明され、槍を正確に投擲できる距離が飛躍的に伸びたため、トナカイ時代にはトナカイが大量に消費された(Straus, 1996; トナカイ猟における槍投げ器の使用についてはBricker, Mellars, & Peterkin, 1993を参照)
トナカイ時代はヨーロッパのマドレーヌ文化期と一致している
その間、道具や武器の材料として、骨や枝角、象牙の使用量が格段に増えるという変化があった(Hayden et al., 1981)
こういった材料は、それ自体が道具として用いられたばかりではなく、細石器という小型の石でできた道具をはめ込む柄としても使われた
ラスコーやアルタミラなど、有名な洞窟画のなかにはこの時期に描かれたものもある
トナカイは何かと重要度が高いにもかかわらず、このような洞窟画には、オーロックスやウマやバイソンに比べてあまり描かれていない
これはおそらくトナカイが実用本位なものと見られていたのを反映しているのだろう
フランス南西部のドルドーニュ地方の小さな洞窟にはトナカイを描いたものがある
しかし、トナカイを描いたものとして最も有名で、かつ旧石器時代の芸術として最高に素晴らしい作品の一つは、マンモスの象牙に施された彫刻だろう
約1万3000年前の槍投げ器の一部で、現在は大英博物館に収蔵されている
トナカイの雌(乳首から判別できる)が雄にぴったりくっついて川を渡る様子が表現されている
雄の大きな枝角から判断するに、この泳ぐトナカイは秋の移動中の様子を表したものらしい
狩人たちは、川の流域の重要ポイントに陣取ってトナカイが移動中に通り過ぎるのを見張り、そこで群れに襲いかかってできるだけ多くのトナカイを無差別に殺したのだろう(Straus, 1987)
そこに寄ってくるオオカミのなかには、人間のあとをついてまわる家畜化過程にあったものもおそらくいただろう
トナカイの家畜化
最後の氷河極大期(およそ2万年前)の後、氷河は北へ向かってどんどん後退し、トナカイもすぐにそれを追っていった
1万2000年前までにはトナカイはフランスから姿を消し(Kuntz & Costamagno, 2011)、西ヨーロッパの他の多くの地域からも消えていた
シベリアや北アメリカでも同様のパターンでトナカイの分布はさらに変化した
この北方への後退中に、比較的南の緯度にある一年中森林環境が維持される地域(アイダホ、五大湖、ニューイングランド、南シベリアなど)に居残った集団もいた
この森林の集団(シンリントナカイ)はツンドラのトナカイ(ツンドラトナカイ)に比べて移動性が低く、また大きな群れを作らずに小さな集団で生息する性質があった(Baskin, 2010)
広大な地域に生息する種なので、トナカイには多数の亜種が認められている 
ただし、その分類は安定していない
ミトコンドリアDNAを用いた近年の遺伝子研究からは、全体的な見直し作業が必要であることが示唆されている(Flagstad & Røed, 2003)
さらに、ツンドラと森林の亜種は予想されたほどのクラスターには分けられないことも示された
家畜トナカイの祖先が属していた亜種(Rangifer tarandus tarandus)は、現在でもスカンジナビアとフィンランド(両地域はまとめてフェノスカンジアと呼ばれてる)の北極圏ツンドラで普通に見られるし、シベリアでも同様
トナカイはまだ家畜化の初期段階にあり、そして家畜化された有蹄類には珍しく、野生集団と家畜化された群れが近接して共存している事が多い
トナカイは「半家畜」と表現されることもある。つまり完全には家畜化されていないということである
このため、トナカイの現在進行中の家畜化から、ウマ、ウシ、ヒツジ、ヤギの家畜化過程の初期段階において、野生集団と家畜のプロトタイプ間で遺伝子移入が起こりやすかった時期がどのような状態だったのか、ヒントを得ることができる
トナカイの家畜化はトナカイ狩りに特化した狩猟採集民のなかで、野生の群れを少しでもコントロールしようと努力する動きが見られた時に始まったようだ
トナカイ狩りで用いる技術のうち、囲い込みなどは積極的な群れの管理にも用いることができた
それに加えて、閉じ込めておくための柵などの新たな技術革新も必要だった
少なくとも3000年前にはトナカイを閉じ込める柵があったことがわかっている(Mirov, 1945; Aronsson, 1991)
しかし、トナカイがどう動きどう移動するかは、まだトナカイ自身が決定していた
そのため、トナカイ飼いは群れについていかねばならず、以前に増して遊牧的な生活を送らざるを得なくなった
長い時間がたつうち、群れの中で「野性的」な個体から扱いやすい個体を選り分けていくようになり、扱いやすい個体が次第に増えていった
だが、このプロセスは今日でもいまだに完成していない
トナカイの家畜化過程を通して、家畜化傾向の強い群れに野性的な個体を意図的に投入することが行われてきた
おそらく厳しい環境かに耐える生命力を増やすためだろう(Røed et al, 2008)
逆に家畜化の程度が様々に異なるトナカイが野生化し、野生の個体と交雑しているのは疑いない
おそらくどの家畜でも、野生個体がいないところや野生集団が駆除された地域に導入されるまでは、家畜化の初期段階ではこのような遺伝子流動が起こっていただろう
従順性の比較的高いトナカイは、肉や枝角や皮の供給源として頼りにできるだけではなく、野生の個体を狩る際に囮として用いることもできた
実際、初期のトナカイ飼いが消費したトナカイ肉の大部分は野生個体のものだったと考えられる
家畜トナカイはかなり得がたいものだったので、極端な状況下ならさておき、食肉用に殺すのは割に合わなかった(Ingold, 1980; Grøn, 2011)
トナカイを殺すのを躊躇う傾向は、現代のトナカイ牧畜民にも残っている
どの時点でトナカイが荷物を運んだりそりを引いたりするのに使用されるようになったのかは知られていない
いずれも、単に群れを管理する場合に比べて高度な家畜化が要求される
特に枝角が生えている雄は危険なので、おそらくその時点で枝角を刈るのが一般的になっただろう(Grøn, 2011)
そりを引かせるが日常的になってからしばらくして、一部のトナカイ民、特に東シベリアのエヴェンキ族などのツングース系民族がトナカイに乗るようになった(Mirov, 1945; Vitebsky, 2005)
彼らはモンゴル人やトルコの騎馬民族と接触した経験から乗馬用の鞍になじみがあり、それを器用に改造してトナカイ用の鞍を作り出した(Mirov, 1945)
トナカイの乳は脂肪分が高く濃い
トナカイ飼いはこの乳を昔から利用してきたが、利用度は様々である(Mirov, 1945; Laufer, 1917)
トナカイの搾乳はウシの搾乳よりもずっと骨の折れる作業であり、時間もはるかにかかる
そのうえ量もわずかしか得られない
とはいうものの、トナカイ乳を消費しているということから、トナカイの家畜化がかなり進んでいるのがわかる
過去、「トナカイ民」たちは遊牧部族であったし、今日でもそうだが、その民族的背景や文化的慣習はさまざま
西半球での人間とトナカイの関係は、一世紀前にアラスカに家畜トナカイが導入されるまでは、野生トナカイを狩ることだけに限定されていた(Cronin et al., 1995)
しかしトナカイが家畜化されていた東半球では、トナカイ牧畜民はそれぞれトナカイに関連する民族特有の慣習を持っている
サーミ族(フィン・ウゴル語派の言語を話し、以前はラップ人と呼ばれた)
時には数千頭にもなる最大のトナカイの群れを擁している
トナカイは主として交通手段(乗用のそりを引かせる)として用いられ、荷物運搬用にもされている(Brännlund & Axelsson, 2011)
サーミ族のトナカイ群はひとところに固められておらず、広い範囲に散らばっている
そのため他のトナカイ遊牧民の群れに比べて捕食者からの攻撃に弱い
サーミ族は伝統的に肉や皮、腱など、トナカイの多くの部分を利用してきたが、乳は利用しないのが一般的
ネオツ族
伝統的には家族単位の小さな群れを擁し、トナカイをもっとしっかり保護していた
しかし、ネオツ族はソビエト時代に集産化され、現在では大きな群れを共有している(Forbes et al., 2009; Forbes & Kumpula, 2009; Krupnik, 2000)
伝統的に、ネオツ族は家畜トナカイの群れを維持する一方で野生トナカイを狩っていた
また、家畜トナカイを管理するために、サモエド犬を動員していた
サモエドは、トナカイを集めおそらく捕食者から守るために、ネオツ族を含めサモエード人が作出した品種(Ingold, 1986; Müller-Willie et al., 2006)
ネオツ族はトナカイを主に肉食用と交通手段にしている
サーミ族と同様にトナカイに随行し、肥沃な放牧場を求めて広大なツンドラ地帯を長距離移動する
エヴェンキ族
サーミやネオツと異なり、エヴェンキはタイガで暮らし、そのトナカイは暖かめの気温と森林環境に適応している
60頭以下の小さなトナカイ群を擁し、トナカイの肉を食べるのは他に食物が得られないときだけ(Baskin, 2000; Baskin, 2010)
エヴェンキ族はトナカイを乗用にも用い、柔らかくあぶみのない鞍を生み出している
また、サーミ族やネオツ族に比べて大量のトナカイ乳を利用する
エヴェン族
エヴェンキ族との関連が深いが、ツンドラのさらに北方で生活している
彼らもまたトナカイを乗用に用い、デント的に小さな群れを家族で維持してきた
エヴェンキとは異なり、輸送には犬ぞりを用いてきた(Vitebsky, 2005)
エヴェンとエヴェンキはどちらもツングース語族に属する言語を話、高度に家畜化されたトナカイに関する慣習面でも共通点があるので、ツングース族としてまとめられることが多い
さまざまなトナカイ遊牧民のなかでも、ツングース族はトナカイの騎乗に最も熟達している(Mirov, 1945)
このように文化的慣習がさまざまなのは、トナカイが独立に家畜化されたのか、あるいは一度家畜化されたのが文化的に分散したのか
単一起源仮説
トナカイの家畜化は南シベリアの鹿石が見られる地域、おそらくアルタイ山脈の地域で一度だけ起こったとされる(Laufer, 1917; Mirov, 1945およびGordon, 2003も参照)
その地域から家畜トナカイの利用が北方に拡散し、フェノスカンジアや北シベリアのツンドラで暮らす人々の間に広まったと考えられた
多起源仮説
トナカイの家畜化はユーラシアの複数の個所で独立に起こったと主張する意見(Mirov, 1945; Storli, 1996におけるレビュー)
修正多起源仮説
近年の遺伝子研究は、家畜化は少なくとも二箇所(フェノスカンジアとロシア)で起こったとする仮説を支持する(Røed et al., 2008)
フェノスカンジアではサーミ族がトナカイを家畜化し、トナカイ関連の慣習はロシアとは独立に発達した(Røed et al., 2008)
だがロシアではネオツ族からエヴェンキ族まで、それぞれのトナカイ遊牧民の慣習と民族性はさまざま
この観点から、現時点では決定的なものではないとはいえ、シベリアの西部と東部で独立に家畜化が行われたという証拠が得られていることに注目したい(Røed et al., 2011)
家畜トナカイ 対 野生トナカイ
トナカイは家畜化の初期段階にあり、最も家畜化されている集団でも野生集団からの遺伝子移入を受けている
そのため家畜化形質を対象とする自然選択の効果は弱まるし、もちろん人為選択の効果も抑えられている
ブタやウシ、ヒツジ、ヤギでも、家畜化初期には野生個体と近接していたのだが、トナカイの現在の状態を見れば、他の家畜化初期の状態もわかるものだろうか?
いくつかの理由から考えるに、トナカイの家畜化には特別な性質がある
最も注目すべきは生体環境が苛酷であること
それが家畜化に関する何らかの改変を制限している可能性がある
しかし、トナカイの家畜化にも、他の有蹄類の家畜化初期と同じ特徴がある
野生集団の管理の初期段階であるこの時期はかなり長く続いた可能性がある
この段階では、野生集団と半家畜化集団との間にかなりの遺伝子移入があり、後者が自然分布している地域の境界から出るまで、それが続く
しかし、家畜化過程の最中にあるトナカイは野生集団に近接して入るが、何らかの分岐は起こっている
この分岐が、単なる(特に食餌の変化に対する)表現型可塑性の反映なのか、あるいは遺伝的な分化がそれにある程度加わっているのか、そうだとすればそれがどの程度のものなのか、ほとんどの形質についてまだ解決されていない
トナカイがかなりの人為選択を受けるようになったのはごく最近のこと
ひとくちに人為選択と言っても、そのやり方は地域的にも部族内でも一様ではない
伝統的に、サーミ族のトナカイ集団の多くは、交配についてはほとんど管理されていなかった(Mazullo, 2010)
にもかかわらず、家畜トナカイには家畜化形質的な特徴が、程度の違いはさまざまだが確実に現れている
たとえば身体のサイズの退縮や鼻づらの短縮、そしておそらく四肢の短縮が見られる(Puputti & Niskanen, 2009)
また、トナカイ飼いは野生個体と家畜個体を何の苦労もせずに識別できるようだ
毛色はおそらく家畜化過程に最も影響を受けている形質
野生トナカイの毛色は集団によって異なるが、ほとんど黒に近い色からほとんど白に近い色まで様々
しかし、同じトナカイ集団内では、毛色の変異は殆ど見られない
家畜トナカイでは、群れの中で毛色がかなりバリエーションに富んでいる
毛色はさまざまで、野生個体には決して見られない斑模様も時々出現する(Redven et al., 2009; Baskin, 2010)
変異に富むのは、自然選択が緩和されていることを示している
一般的に、哺乳類の毛色の場合、選択が緩和されているというのは、カムフラージュや隠蔽色を対象とする選択が弱くなることを意味する
家畜トナカイの場合、選択がゆるくなったのは捕食されるのが減ったあことを反映している可能性がある
家畜トナカイであることの利点の一つは、人間が保護してくれるので捕食されにくくなるという点(Andrén et al., 2006; Tveraa et al., 2003)
突然変異によって目立つ毛色になっても、野生個体ほど不利にはならない
しかし、人間の保護の程度もさまざま
サーミ族の群れは広い範囲に散らばっているので、エヴェンキ族の群れよりも保護するのは難しい
実際、サーミ族のトナカイはかなり捕食されている
にもかかわらず、サーミ族のトナカイには、野生集団とは対照的に毛色の変異がかなり見られる
ということは、この場合、そしておそらく他の場合でも、他の選択圧が存在するはずで、それが除去されることで毛色の変異が現れると説明できる
トナカイの毛色の選択に影響を及ぼす要因として一つ重要なのは、ブユやカ、そしてフェノスカンジアの場合には特にウシバエなど、寄生性の昆虫(Folstad & Karter, 1992)
真夏にはトナカイはカにかなり悩まされ、わずかにパッチ状に雪が残る避難所を探し回るため、餌を食べられないほど
このうるさいカのせいでカリブーが集団で暴走することさえある
ウシバエ(ヒフバエ属)はもっとひどい
ウシバエはトナカイの前肢などの毛に卵を産みつける
トナカイはグルーミングして産み付けられた卵を舐め取るが、取り切れなかった幼虫は皮膚に移動して奥に潜り込み、筋肉などの組織内に穿孔する
皮膚にはふくらみができ、感染症を起こして膿がたまることもある
羽化したハエは皮膚に穴を開けて出てくる
ウシバエの感染は肉や皮を台無しにし、成長を阻害するので、家畜トナカイには、イベルメクチンなどの広域寄生虫駆除薬が投与される(Oksanen et al., 1992)
何らかの理由により、ウシバエは明るい毛色のトナカイを好んで襲う
フェノスカンジアの野生トナカイに暗色の傾向があるのはそのためかもしれない(Redven et al., 2009)
しかし、薬を投与された家畜トナカイはウシバエという災いから保護されているため、明るい毛色は、もはや自然選択のうえで不利ではない
サーミ族のトナカイは捕食圧がかかっているにもかかわらず、毛色にかなりの変異が見られる
これは、ウシバエの感染による選択圧が緩和されているためだとして、ある程度は説明できるかもしれない(Redven et al., 2009)
捕食にせよ寄生にせよ、選択圧の緩和だけでは、家畜トナカイの毛色変異を完全には説明できない
毛色の突然変異の中には、文化によっては野生型の毛色よりも好まれるものもある
サーミ族にとって白い毛皮は価値がある(R. Harris, "The Deer That Reigns," Cultural Survival Quarterly 31.3 (Fall 2007))
小さな家畜集団ではよく起こることだが、遺伝子のボトルネック効果によって、一つあるいはそれ以上の毛色に関する突然変異遺伝子の頻度が増加し、毛色の変異が拡大することもありうる
トナカイにおける家畜化と性選択
性選択の減少と、それによる性差の減少もまた家畜化過程にはつきもの
シカ科の性差で最も顕著なのは枝角と身体のサイズ
シカ科の種では、雄の枝角のサイズと配偶相手をめぐる雄間闘争の程度との間には相関関係がある
ノロジカやホエジカなど、最も成功した雄でも比較的少数の雌としか交尾しない種では、角は小さい
ワピチやアカシカでは、雄間闘争がもっとハードであり、比較的少数の雄がほとんどの雌を独占する
カリブーの枝角はシカ科のなかで身体のサイズに比べて最大
性選択と枝角サイズとの関係の一般的な議論はClutton-Brock, 1982およびCaro et al., 2003を参照。トナカイの性選択についてはRøed et al., 2002を参照
そうすると、家畜トナカイの枝角は著しく退縮していると考えてもいいはず
研究がまったく行われていないようなので、たくさんの写真を見たが、明らかな違いは見つけられなかった
トナカイの家畜化の家畜化による進化の現時点では、性選択圧はまだそれほど緩和されていないようである
通常、若い雄を間引くことから性選択圧の緩和が始まる
それが最も顕著になるのは、人間の手で交配相手を選ぶようになったとき
トナカイの家畜化は、概してまだそこまで進行していないようだ
この観点で、サーミ族のトナカイを最も家畜化が進んでいるエヴェンキ族のトナカイと比較するとおもしろいだろう
性選択と性的二型に関しては、進化を広い範囲で吟味すべきであり、トナカイは特に参考になる
性的二型が出現するのは、選択によって雌雄の表現型が異なる方向に進むとき
標準的な自然選択により雌雄に差ができて性的二型が生じる場合
性選択と呼ばれる特殊な自然選択によって生じる場合
性的二型を作り出すためには、枝角など特定の形質によって片方の性のみが利益を得るだけでは十分ではない
性拮抗的選択
ある形質によって片方の性が利益を得ることと、それに加えて、もう一方の性の適応度が同じ形質によって有害な影響を被ることが必要
全生物の全形質について考えてみると、性拮抗的選択はまれにしかない
片方の性の表現型にどのような変化が起きても、遺伝的かつ発生的な相関関係により、もう片方の性の表現型も便乗してしまう(Ashman, 2003; Chenoweth, Rundle, & Blows, 2008; Francis, 2004)
一般向けの進化の説明では、この重要なポイントが見落とされている
人間の進化については特にそう→第13章 人間──I 進化
ウシ科の洞角とシカ科の枝角を比べてみれば、性拮抗性にも様々な度合いがあることが明らか
ウシもシカも、雄間闘争(同性間選択)において重要な役割を果たしている
洞角にはコストがあまりかからないため、ウシ科のヘッドギアには進化的な性拮抗性が少ない
ウシ、ヒツジ、ヤギ、アンテロープなど、ウシ科動物の雌の多くが、雄に比べて小さめとはいえ角を有しているのは偶然ではない
ウシ科の雌の角は場合によっては適応的であるという証拠もある(Berglund, 2013; Stankowich & Caro, 2009; Packer, 1983; Estes, 1991)が、ウシ科の雌で角の出現率が高いことと、シカ科の雌で枝角の出現率が低いことについて,表現型の便乗が果たす役割に関してはあまり考察がされてこなかった
枝角に関しては、かなりコストがかかる構造であるため、性拮抗性がもっと濃厚
表現型の便乗はあまり起こらないことが期待できる
トナカイはシカ科のなかで唯一、雌にも枝角が生えている
枝角が雌の順位を確立する役割を果たすのだと提唱する人たちもいる(Lincoln, 1992)
しかし、社会的で順位制を持つ他のシカでは、雌には枝角はなく、トナカイでも大半の雌に枝角がない集団もあり、枝角のない雌たちは、優位性を枝角なしでも区別できるようだ
Jacobsen, Colman, & Reimers, 2011は、枝角なしの雌を含む集団の遺伝的浮動による進化を提案している
またWeladji et al., 2005によれば、枝角の消失は不十分な環境条件への対応である
Cronin, Haskell, & Ballard, 2010; Reimers, 2011も参照
これとは別に、雌の枝角は、食物が不足する冬に若い雄と競争する際に役立つとする仮説も提唱されている(Espmark, 1964; Holand et al., 2004)
雄の枝角を進化させるような強い選択圧がかかった一方で、雌の枝角を排除するような選択圧はそれほどかからず、雌雄ともに枝角に関わる遺伝子をもっていて、雌では枝角が単なる副産物として生じたのかどうか、検討してみたほうがよさそう
世界規模で比べてみると、トナカイ集団によって枝角のサイズが著しく異なっているので、表現型便乗仮説が検証できるはず
もしこの仮説が正しいなら、雄の枝角が最大の集団では雌の枝角も最大であり、また雌に枝角がない集団では雄の枝角は最小になることが予測される
家畜化とトナカイの行動
ベリャーエフによれば、身体的な形質ではなく、従順性が高まるという行動の変化こそが、家畜化の先駆けとなる変化だった
表現型可塑性だけでなく、野生型の状態に比べて遺伝的に変化しているという証拠が必要
残念ながらトナカイはそうした実験を行うには適していない
間接的方法ならば、家畜化による従順制への影響を評価することができる
ヨーロッパで野生トナカイが激減した地域で、家畜トナカイを移入してトナカイ集団を復元しようという試みが行われている
ある個体が野生由来と家畜由来の遺伝子をどのような割合で持つかは測定可能
その意味で注目したいのは、ノルウェーのトナカイ集団では、逃走距離(トナカイが逃げ出す距離)と家畜由来の遺伝子の割合との間に、高い相関関係が見られること(Reimers, Røed, & Colman, 2012)
したがって、現在では野生化しているトナカイでも、真に野生のトナカイに比べれば従順性を保っており、家畜化されたことを示す行動面での兆候を保持している
こうした群れは現在大規模に狩られており、群れによっては100年近くも狩られ続けているというのに、それでもなお行動面で家畜化による特徴が残っている
トナカイは過小評価されていた
フェノスカンジアやシベリアの多くの地域では、トナカイは今日に至るまで陸上での唯一の交通手段
旧石器時代後期の大半の時期を通じて、トナカイはユーラシア人にとって主要な食物だったが、洞窟画にあまり描かれていないことからすると、オーロックスやウマ、バイソンほど高い敬意を払われてはいなかったと思われる
だが、家畜化が始まった頃、その見解は変化した
青銅器時代の巨石に彫り込まれた空飛ぶトナカイ
エヴェンキ族やエヴェン族など、現代のシベリアの部族の信仰にもこのモチーフは重要なものとして登場する(Vitebsky, 2005)
家畜トナカイは家畜化による表現型のいくつかの特徴に関して、その出現のタイミングについて有益な情報を与えてくれる
「行動上の変化(特に従順性)が最初に生じる」というベリャーエフの仮説の正しさ
家畜化によって得た表現型のなかでも最後まで消えずに残っている特徴が、従順性
家畜化されたトナカイの表現型で最初に起こる身体的変化は、身体のサイズがやや小さくなることと、毛色の変異がかなり増えること
身体のサイズが減少するというのはm,イヌでもウシでも、家畜化された他の動物の考古学的な記録と一致する
毛色の変異の増加も他の動物で起こったことと矛盾しないし、キツネの実験で起こったこと友一致する
性的二型の縮小など、家畜化による表現型の他の特徴はまだ出現し始めたかどうかという段階だが、まもなく状況は変化するはずだ
トナカイの畜産が産業化されるのは不可避であり、トナカイが自分で交尾相手を選ぶ機会は徐々に失われていくだろうから
→ 第10章 ラクダ